田代三喜 たしろ さんき
田代三喜 たしろ さんき
漢方医学の国内における源流をさぐると、室町時代の田代三喜(1465-1537)にたどりつく。すでに紀元後数世紀の昔からわが国に大陸由来の医学は行われていたが、学統をたどることができるのは三喜までである。その意味で日本の医学は田代三喜からはじまった。
三喜は武蔵国越生(おごせ)の人とされているが、川越が生地との説もある。明に留学し、当時隆盛であった彼の地の医学をまなんで12年後の1498年に帰朝した。三喜がもたらしたのは李東垣、朱丹渓らがとなえた医学で、両者の名前から李朱医学とも、その時代名から金元医学とも呼ばれている。
帰国して鎌倉に居を構え、のちに下野の足利、さらに古河に移り医業を実践した。三喜がなぜ京ではなく東国を目指したのかは一考に値する。それは帰路に上陸した港が博多であったにせよ堺であったにせよ、都に近づくにつれて、将軍の威令が山城国一国におよぶのみという応仁の乱以降の疲弊した京のありさまをつぶさに知ることができたからである。
三喜は自分がもつ医学知識の価値を十分に承知していた。戦乱を避けて、おそらく、自らの治療を実践しそれをひろめる環境ができることを欲していた。京を離れて東国の旧都鎌倉をおとずれ、足利からさらに古河に赴くという転変にもそれがうかがえる。
古河を終の住み処とした三喜は、そこで足利学校に遊学していた曲直瀬道三を見出した。道三は十数年三喜の下でまなび、師の歿後に帰京して学舎啓廸院をひらき多くの医生を育てるのである。これは師の夢想の実現であった。
書経由来の啓廸の語は、三喜の著書に「啓廸庵」としてすでにみえている。みちをひらく、という自負のこもった語は先駆者にふさわしい。
三喜の著書、『三喜廻翁医書』は薬物名が隠名で書かれている。隠名とは漢語のカンムリやヘン、ツクリなどを組み合わせた漢字風の符牒のことで、部外者の直の理解を困難にする仕掛けである。これも舞台が整うまでは自らの学術を秘匿したいという意志の表出であろう。
三喜の夢はかくして道三に托された。その結果、自らのもたらした医学の普及も権力への接近も、ともに果たされることになるのである。