名古屋玄医 なごや げんい
名古屋玄医 なごや げんい
名古屋玄医(1628-1696)は京都に生まれ、丹水子、あるいは宜春庵と号した。
江戸時代の始め、わが国の医学は曲直瀬道三の学流が最も盛んであった。曲直瀬流の特徴は陰陽五行説に基づく臓腑経絡をもって疾病の病理、予後、治療を論ずることであった。
医家であった名古屋玄医は、明国の喩嘉言の『傷寒尚論』や『医門法律』を読んでその学説に共鳴して、五臓六腑に立脚した考え方ではとかく温補の剤を多用する弊害が生じやすいと考えるに至った。温補の説は金元の時代に李東垣、朱丹渓が出現して盛んになったが、江戸時代の始めには、やみくもに温補した結果瀉剤を用いるべき時機を失し民命がそこなわれるという事例も多く経験されたのであろう。玄医は、李東垣、朱丹渓の教えを墨守する危険を説いて、張仲景の考え方に戻ることを主張したのである。
江戸幕府を打ち立てた徳川家康は儒教を尊び、南宋の朱熹の儒学体系である朱子学を幕府の基本的教学と定め、藤原惺窩や林羅山を重用した。しかし幕府が生まれて約半世紀経つと山鹿素行や伊藤仁斎により朱子学に対する懐疑が表明されるようになった。黙視できないとした幕府は、1666年素行を赤穂に配流しこれを処罰した。
大陸に目を転ずると、十七世紀の後半に考証学が起こりつつあった。大陸と日本とほぼ時代を同じくして、天人合一思想などに批判のまなざしが注がれ、原典に回帰せよとの主張がなされるようになったのである。
漢方医学の歴史の上で、玄医は後の後藤艮山(1659-1733)や山脇東洋(1705-1762)、さらに吉益東洞(1702-1773)らのいわゆる古方派の先駆けとされている。古方派とは陰陽五行説による病因病理を否定し、『傷寒雑病論』などの古典をもっぱら尊重する学流である。吉益東洞に至っては、『黄帝内経素問・霊枢』を偽書として退けるという極端な立場をもとるに至った。
玄医の学風を伺う手がかりとなる『丹水家訓』の第四訓には診察の際の心得として、望診には素問の『玉機眞藏論』などを参観すべしと述べ、さらに第五訓には、「頭痛には頭痛を治し、腹痛は腹痛を治し、咳は咳を治し、喘は喘を治す。みな仲景の方に随う」としている。これらの家訓からは、後のいわゆる古方派のような極端な立場にはないことが理解されよう。さらに玄医には後藤艮山や山脇東洋にみられるような解剖に対する関心は皆無であることも特徴である。
玄医は幼い頃から多病で、四十余歳で足腰が立たなくなったが、診療は休むことなく『医方問余』をはじめ多くの著述を残した。