香川修徳 かがわ しゅうとく
香川修徳 かがわ しゅうとく
香川修徳(1683-1755)は播磨姫路の人で、字(あざな)は太冲といい、修庵と号した。京都に上って後藤艮山について医をまなび、伊藤仁斎について古学を学んだ。そしてついに、儒学と医術とは一つであって矛盾するものではないとの一家言を立てて、その堂を名づけて一本と号するに至った。
修徳の功績は、師説を推し広めるとともに、20年後の吉益東洞の出現の先駆けとなった点にある。師の艮山は温泉治療や留滞した気を通暢(つうちょう)するための灸療法などの新機軸をさかんにとりいれた。修徳も師の志をついで温泉の効用を研究し、温泉の良悪の鑑別法を示して、浴法の規則を立て、痔、脱肛、梅瘡、婦人の冷え、帯下などに善いと主張した。さらに按摩術を病気治療に取り入れるべきと唱え、後の賀川玄悦らの産科術における按腹法の応用にみちびいた。
当時の社会では精神科はまだ未開拓の分野であった。修徳は著『一本堂行余医言』で、妊娠時や産褥期の精神病をあげて、俗にキツネ付きと称する状態もみな精神病であって、野狐の祟るところではないと論じた。過去の視点にとらわれないのが修徳の真骨頂であることが理解される。
彼の主張が後々まで大きな影響を与えたのは、従来の通説を破り、ひたすら尊重されていた古典に疑問の刃をむけたからである。彼はみずからの経験から、実際に施して効験がある薬物のみを評価しただけでなく、それまで重視された薬物の気味や陳新の説にこだわらず、引経報使の説、升降浮沈陰陽の論はともに近世医家の空論なりとして退けた。また『黄帝内経素問・霊枢』などに対する疑問の表明を躊躇しなかった。すなわち彼の主張するところは、親試実験という言葉そのものであった。その意味で、同門の山脇東洋の観臓と通ずる所がある。これらの考え方は後の吉益東洞にそのまま引き継がれ、マニフェストである鶴元逸著『医断』は当時の医界に衝撃をあたえ、賛成するにせよ反対するにせよ激しい議論を巻き起こした。
香川修庵の元には 数多くの俊秀が集った。その数400名以上と言われている。
彼には、「我より古(いにしえ)を作る」という言葉が残されている。古今のだれの模倣でもないという彼の強い自負を示す一言である。